右近家は、幕末には日本海五大船主の一人に数えられ、最盛期には三十数隻の廻船を所有しました。その後、蒸気船を導入し事業の近代化を図るとともに海上保険業にも進出。事業の転換を計っていきました。
国道三○五号線沿いにある右近家の邸宅は現在、北前船歴史資料館として一般公開しています。天保時代の構えを明治三十四年に建て替えたという上方風切妻造瓦葺二階建の家屋は、北前船による産地直送の材料を使用。豪勢な中に上方文化特有の繊細な造作が随所に見られます。
背後の山腹には庭園が広がり、西洋館と亭(展望台)から眺める敦賀湾〜若狭湾一帯は絶景です。
幕末から明治にかけて、蝦夷地(北海道)と上方(大阪)を結ぶ廻船がありました。その名も「北前船」。
日本海諸港を巡り、各港で商売をしながら、品物だけでなく文化や技術の交流を促したのです。
廻船業者たちは、各寄港の商品を売り、そのお金で各地の商品を仕入れて持ち帰ったり途中で売り払ったりしました。上方から蝦夷の地に向かう際に積み込んだ「下り荷」は、生活必需品が中心。砂糖、塩、醤油、味噌、茶、酒、菓子などの飲食品をはじめ、衣料品、医薬品、タバコ、鉄、米などを買い入れ、蝦夷の各港へ陸揚げしていました。一方、「上がり荷」は、ニシン、〆粕、数の子、昆布、棒鱈が主。中でもニシンは、食用の他、農業肥料としても用いられたため、大きな利益を上げました。
海の男たちの夢と情熱を乗せた北前船。日本海を舞台に物流産業は栄えていったのです。
開館時間:午前9時〜午後2時
休館日:毎週水曜日・年末年始(12月27日〜1月4日)
8月第1日曜日の前4日と後3日の8日間
観覧料:
自然が造り出した洞窟は
遠い昔へと続く歴史の入口
「建武四年、後醍醐天皇の皇太子恒良をかくし奉る所、蕉木浦は此なり」
と名勝記に記されている下長谷の洞窟。甲楽城にあるこの洞窟は、延元二年、金ヶ崎城落城の際に気比神宮の神官が春宮恒良親王をかくまった場所だと言われています。
大正十三年十二月十二日、舞鶴港へ向かう特務艦関東が激しい吹雪に見舞われ、糠の沿岸で座礁破船しました。
九十七名の尊い命を奪ったこの事故の報せを受けた河野村民は、自らの危険も顧みず献身的な救助活動を繰り広げたのです。当時、日本中に感動をもたらしたこの出来事。時代は流れても糠海岸に佇む「関東」の避難園地は、村民の優しさを今も静かに物語っています。
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河野村役場産業観光課
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